紅茶の歴史  カモミール お買い物かご 

ギャラリー1ギャラリー2ギャラリー3topに戻るお茶の雑学


  紅茶物語 
界中で親しまれている紅茶にも歴史があります。この歴史は、単なるお茶の歴史だけでなく、それぞれの国の文化、政治、宗教的背景も複雑に影響を受けて、世界中を舞台にしています。 時間や国を超えた紅茶の歴史の旅に出発です!
  お茶がヨーロッパへ伝わる時
1500年ごろポルトガル人がはじめて中国でお茶を味わいました。これが西洋人で初めてお茶を口にしたといわれています。そのずっと後の1597年、オランダの商船が初めて東方へ船を向かわせました。そのころヨーロッパ諸国は東洋に大変興味を持っていました。ヨーロッパとは文化や習慣が違い遥か遠い異国の文化に興味を示していました。 また東洋から多量の香料や香辛料、産物品をヨーロッパへと運んできたのです。その中にお茶も含まれていたのでした。これがヨーロッパへとお茶が運ばれた最初だといわれています。そして東洋貿易が盛んに行われるようになったのでした。そんな中、東洋との貿易を行うため、オランダの東インド会社が設立されました。これが1602年の事でした。ところでなぜ、東洋貿易が盛んになっているときにわざわざ東インド会社が設立されたのでしょうか。それはあまりにも東洋貿易会社が多くなったため全体的に東洋品の価格が下がりました。そのためこれらの会社が共倒れする危険性があったためです。東洋との貿易はこの東インド会社が独占し、市場に流通する商品の量や価格を操作できるようにしたのでした。このように中国からのお茶の輸入が盛んになってヨーロッパをはじめお茶ブームが始まるのでした。遥か遠い東洋の国のお茶飲んでいるヨーロッパの人々はどのような気持ちだったのでしょうか。異国の雰囲気を想像し、話をしながらティータイムを楽しんでいたのでしょうか。
  ●紅茶の歴史 〜 紅茶の事件 〜

記の話を聞かれて皆さんは疑問を感じませんか?どのような疑問かといいますと、イギリスでは大量のお茶を消費していたのですよね。そのためイギリスは中国から大量にお茶を輸入していたのですよね。その支払いは?・・・ いくらイギリスが世界中に植民地を持っていたからといってそんなにお金を払うのでしょうか?そのときイギリスは茶の代金として「銀」で支払っていました。やはり多額の銀を払いすぎると財政が危うくなってしまいます。そこでイギリスがとった手段はどのようなものだったのでしょうか。イギリスは1766年に中国に対して「銀」の支払いでなく自国植民地インド産のアヘンで支払いを始めました。そのため中国(当時は清です)国内でアヘンが流通してしまい、大変な問題となってしまいました。そこで清はアヘンの輸入・使用を禁止して、密輸業者へ厳しい処罰を与えました。それを理由にイギリスは清に攻入り、屈服させました。その時香港をイギリスへ譲渡させ、さらにアヘンの流入を拡大させました。それが清を滅亡の道へと進ませたのでした。この香港はつい最近までイギリス領として残っており、1997年に中国へ返還されたのでした。
  ●歴史を変えたアメリカでの紅茶

 
回イギリスが紅茶の流通を拡大して、中国と対立しながらも紅茶を流通させたお話を致しました。場所が変わってアメリカでも歴史を変えるほどの大事件がありました。 その事件がきっかけともいえる事柄に紅茶がかかわっていたのでした。時は1700年代の中ごろ新大陸のアメリカでも紅茶の大量消費時代に入っていました。このアメリカの紅茶は正規ルートではイギリスからの輸入をしていました。ところがこのイギリスからの紅茶は値段が高かったのでした。というのもイギリスからアメリカに輸出していた紅茶には高い税金がかかっていたからです。だれも高い商品を喜んで買う人はいないですよね。どうせ買うなら少しでも易い方がお得ですもの。当時のアメリカ人もきっと同じような事を思っていたのでしょう。試行錯誤の結果、イギリスからの正規ルートとしてではなく、密輸という形をとりオランダなどからの輸入をアメリカの輸入業者は行っていたのでした。その後、アメリカに対する輸出量が減少し逆にオランダなどからの密輸の紅茶が盛んになり始めたのでした。その結果イギリスの東インド会社の所有する紅茶の在庫が過剰気味になってしまい、このままでは損をしてしまうという事態にまでなったのでした。普通ならそこで企業努力として販売を促進させたり、在庫管理をしながら流通量を調整したりするのでしょうが、そこでとった政策が後々大事件を起こすことになるのでした。イギリス議会は今までアメリカに対して紅茶を輸出するときは高額の税金をかけていたのを無税にする法案が可決されてしまったのでした。それに反発したのがアメリカの密輸業者でした。今まで密輸で安い紅茶を仕入れてきていたのが、売れなくなってしまうからでした。
  ボストンティーパーティー事件
回アメリカ大陸に対して紅茶輸出にかかる税金を無税にして東インド会社の紅茶在庫量を減らす政策を取ったお話をいたしました。この政策により「ボストンティーパーティー事件」が起きたのでした。このティーパーティー事件の中心的存在がアメリカの紅茶密輸入業者です。安い紅茶がアメリカに大量に入ってしまうと今後自分たちが密輸で儲けることが難しくなるからです。そのため彼らを中心に反対運動や抗議集会を行い、婦人運動などを巻き込んだ形で運動が大きくなっていったのでした。1773年12月16日、日が沈み周りが闇を包んだ時ボストン港に停泊しているイギリスから紅茶を積んだ船が襲われたのでした。その船の積荷である紅茶をすべてボストン湾に投げ入れたのでした。その時冗談交じりで言われた言葉が元で「ボストンティーパーティー事件」と言われていたのでした。その冗談とは「ボストン湾というティーポットに紅茶を入れよう」とか「今日はジョージ三世の茶会である」などです。イギリスの植民地であったアメリカ人は紅茶に限らずいろいろな事でイギリスに不満をもっていました。そのはけ口として紅茶の件が利用されたのでしょう。その後、この事件がきっかけとなりアメリカの反イギリス運動が盛んになりアメリカ独立戦争へと発展したのでした。
  ●アッサム茶の生産 
  ギリスは18世紀に入ると産業革命時代が訪れます。イギリス繁栄の時代です。このころのイギリスは世界各国に植民地を持っておりその植民地の原材料をイギリス本土で加工し、また植民地へと輸出するという考えが強くなっていきました。そのためイギリスは製造販売産業が拡大していき食料などの農産物は海外から輸入するという流れと移っていったのでした。その中の一つに「紅茶」も含まれており、今まで中国から輸入してきたお茶をどうにかしてインドで栽培できないかという考えが強まっていきました。それには今まで持っていた東インド会社の中国茶独占権を失ったのも理由として挙げられます。しかし誰もイギリス人で茶の生産や加工における知識を持った人はいませんでした。そんな中インド東部にあるアッサム地方で新しい茶樹の品種を見つけました。その品種を調べてみると確かに飲用の茶樹でした。その木を使ったインドでの茶栽培が始まったのです。そしてついに1839年にはこの「アッサム紅茶」がイギリスでのオークションにかけられました。それがきっかけとなり、本格的なインド生産がはじまったのでした

   

ギャラリー1 ギャラリー2 ギャラリー3topに戻る お茶の雑学